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私立中高一貫校教員。社会科担当。


by めがね

めちゃイケ世代

岡村隆史は1970年生まれ、僕は1980年生まれでちょうど10歳下。思い入れのあるテレビ番組がたくさんあるようなタイプではないけれど、めちゃイケは比較的熱心に見ていた。

「ヨモギダ少年愚連隊」のヨモギダ君は、そういえば同い年。僕も大学時代は打ち込みで映画音楽を作ったりしていたし、卒業後は大学院に長く残っていてフラフラしていた。そのような自分の状況もあって、シンパシーをもって岡村さんとヨモギダ君のカラミを楽しんでいた。
「オファーシリーズ」や、おバカ決めをする「抜き打ちテスト企画」も大好きだった。

年齢を重ねる中でテレビを見る時間自体が減っていったが、それでもたまに見る「ゴチ」などは面白かった。しかし、単純に「岡村、年とったな」と思うときが増えた。

若い頃に好きだった芸能人全員に、加齢によるマイナスを感じるわけではない。でも、「パッカーン」以降、岡村さんの中からはお笑いに対する情熱や「ひたむきさ」みたいなものが、少しずつ失われていったように僕には感じられるのである。「オファーシリーズ」のように、物事に熱心に取り組む姿を見せて人気を得てきた岡村さんだからこそ、他の芸能人以上にそこに加齢を読み取ってしまう。

そして、岡村さんに加齢を感じてしまうもう一つの要因は、今から振り返って考えると、彼の女性観に合ったように思う。テレビの企画でお見合いをした女性と交際が進展していたにも関わらず、相手の女性の元カレが有名人で自分の知り合いだと分かると、交際を継続することができなくなったしまった。まわりの男性芸能人が、若い女性有名人と交際したり結婚したりした際には、自分はもっと上のランクの人と結婚したいというような主旨の発言をしていたこともあったように思う。ラジオでの風俗ネタ、アローン会の流れでの発言、若い女性芸能人とのカラミなど……。強い言葉遣いはよくないとは思うのだが、もう若くないことを考えると率直に言って「気持ち悪さ」を感じてしまうのである。

4月30日のオールナイトニッポンの中では、以上のような岡村さんの性質を「天然」や「甘さ」などという形容でオブラートに包んで説明していた。しかし、矢部さんがどこまで明確に意識して発言していたかは分からないないが、彼のロジックは今回の不適切発言は偶然ではなく、岡村さん自身に差別的な感覚が内包されているから今回のような発言がなされたというものである。調子にのって口を滑らしてしまったというわけではないと、相方が主張しているのだ。

すでに何人かの方が指摘されているが、説教をしてる矢部さん自身が無意識のうちに、男性である岡村さんを改善させるための要因として女性を位置づけていることの問題性は確認しておかなければならない。また、僕の論理にだって、「じゃあ、若ければ、多少女性に対するこだわりが強くてもいいの?」というツッコミはできる。

ただ、やはり今回の岡村発言は度を超えている。番組での真摯な謝罪が評価できる一方で、めちゃイケ世代の僕でも、もう昔のような気持ちで岡村さんの番組を楽しめないのは確かである。

# by bbex33312 | 2020-05-03 01:49 | エッセイ
「ぱわあっぱ、ぱわあっぱ」
仕事が終わり帰宅すると、紙おむつ一丁の娘が「パパ、パパ」と言って、玄関までよちよち歩きで突進してくる。

「こっこ、こっこ」
わが娘は父による抱っこを所望されておる。その期待に応えようではないか。

娘を抱き上げると、大きく開いた両足で父をはさみ、体重を預けてくる。
ごくごく控え目に言って「最高」である。

やっぱり教員は、人並み以上に頼られること・信頼されることに喜びを感じるのだ。
それが幼い自分の子どもなら、なおさらである。

# by bbex33312 | 2020-01-23 00:32 | 日記

 これまでも日本の歴史教育は暗記偏重だという問題意識に基づいた、論考や実践が積み上げられたきたが、難関私立大学入試において些末な知識が要求されるという「現実」により、なかなか中等教育における歴史教育の実態が変わらないという状況が続いてきた。歴史教育が変わらない要因には、鳥越康彦や小川幸司が指摘しているように、歴史教師が自分たちが教わってきた方法での教育を検証することなしに再生産することで、「苦役への道」を「世界史教師」がしきつめているという現状も考えられる。

しかし、近年、歴史総合の設定、「アクティブ・ラーニング」の推進、大学入試共通テスト実施などの入試改革、高大連携歴史教育研究会による用語精選の動きなど、日本の歴史教育を暗記偏重の教育から、いわゆる歴史的思考力を育成する教育に変更する動きを後押しするような大きな潮流がうまれている。このような潮流に参画する実践を行うという筆者の問題意識から、上記テーマについて研究を進めた。言い換えれば、コンテンツばかりに注目してきた歴史教育を、コンテンツの獲得とコンピテンシーの育成を両立する歴史教育に転換する試みである。

思考力育成型の授業実践を進める上で主な課題として筆者が想定するのは、まず、授業中にグループワークなどの時間をとると、限られた授業時間で必要な用語をすべて説明することができないというものである。このことは、思考力育成型の授業実践に対して大学入試の「現実」を重視する論者は、しばしば入試に出る内容を網羅できないというお決まりの批判を行うことによく表れている。

この一つ目の課題は、近年の入試改革の動き・用語精選の動きに期待するとともに、思考力育成型の授業の中で生徒が主体性を身につけていくことで解決に近づいていくのではないか。主体性が身につけば、適切な教材を与えていくことで、入試に必要な知識を自分で獲得していくことができるはずである。かなりの数の歴史用語が、プリント穴埋めになっていて、それを埋めながら教員がひと言コメントをつけるだけで、その用語を教えたということになっている現状を考えると、アリバイ作りにしかなっていない網羅性にこだわることをやめ、適切に課題を与える方法や、生徒が主体的に学習に取り組む方法を研究することが重要である。

次は、より本質的な課題で、思考力育成型の授業を進めるためには、どうしても高校教科書レベルで解決できる良質な問いが必要であるということである。多忙を極める教員の実態を考えると、授業すべての単元で、教員が独力で良質な問いを毎回設定していくということは、かなりの労力を要することになる。

 この二つ目の課題への解決策の一つが、大学入試で出題される論述問題を授業での問いにつかうということである。また、授業で論述問題を扱い、論述問題への対応力を養いながら知識を得ていくということは、知識の獲得と論述力の育成を別々に行うのではなく同時並行で行えるため、通史の授業とは別に行う論述対策の時間を減らすことができる。つまり、一つ目の授業時間不足という課題にも、対応することができる。

 筆者は、論述問題を授業に生かす研究をすすめるため、春から夏にかけて以下の二つの研究会・講習会に参加した。一つ目は、328日に東京外国語大学で開かれた「入試問題を歴史教育に生かす」という研究会である。そこでは、都立駒場高校の津野田興一先生が、「論述入試問題を利用した高校世界史の講習について」をテーマに発表された。津野田先生の実践は、あくまで入試対策的に講習で入試問題を扱う方法を説いたものであったため、アクティブラーニング型の授業ですぐ追試できる内容ではないが、入試問題の選び方は参考になった。

 二つ目は、84日に河合塾池袋校で開かれた「世界史論述対策」という教員向けの講習会である。担当の坂本新一先生の模擬授業は、ある程度、生徒が教科書や高校の授業などで流れをつかんでいることが前提になっているものの、基礎知識を説明してから論述問題に取り組むという形式にはなっておらず、論述問題の解説をしながらテキストで基本知識を確認し、最後に採点基準などを提示する形式だった。このような授業が成立しているということは、論述問題を解く前提として基礎知識の説明が必ず必要なわけではなく、問題の解説部分をグループ作業に置き換える仕組みを作ることで、問題を解く過程で、生徒たち自身で知識を確認しながら解答を考えるということができることを示しているように考える。


 
# by bbex33312 | 2018-09-02 23:16 | エッセイ
(1)アクティブラーニングとは何か? :アクティブラーニングの目的と方法
① そもそも何をもって、アクティブラーニングとするのか?
  →アクティブラーニングと言った時に、どのような授業を行えばアクティブラーニングを行った
   ことになるのか。議論をしている人同士でイメージが異なるので、議論が噛み合わない。
 a. 灘中学校・高等学校の英語科教諭・木村達哉のコメント
    巷では「アクティブラーニング」という授業手法があたかも存在するかのように言われ、
   特に公立の先生方は「文科省が言うんだからアクティバらなくっちゃ!」と感じていらっ
   しゃるように思います。
    でも昨年秋のシンポジウム で文科省の課長が600人の聴衆の前ではっきりと「これが
   アクティブラーニングというものは文科省の中でもまだ明確にはなっていない」と仰り、それ
   を元事務次官も聞いておられて異議を唱えなかったのですから、文科省がどうおっしゃろう
   がこうすれば生徒たちの力を伸ばしてやれるという自分なりの方法をわれわれ教員は地道
   めに突き詰ればよろし。
    大事なのは「アクティブラーニング」という授業手法などないのであり、あるのは「アクティ
   ブラーナーズ」をどうすれば育てられるのかという認識なのです。Active Learners(主体
   的な学習者)です。
 b. では、アクティブなラーニングは必要ないと主張しているのかというと、そうではなく、固定
   的な「アクティブラーニング」というタイプの授業方法はないと主張していると考える。「生徒
  たちの力を伸ば」すという観点にたった時、現在の大学入試改革の潮流や生徒の質の時代
  的な変化を考えると、従来の講義形式の授業だけでは限界があるのは間違いない。その際
  に新しく構想される授業が、「アクティブラーニング」というタイプの授業方法に当てはまるか、
  どうかは問題ではない。
 c. そして、その新しく構想される授業は、知識や問題の解き方を覚えるだけでなく、知識の活
  用力や思考力・表現力を伸ばそうと考えた時に、必然的に生徒の授業参加の要素を増やす
  ような、つまり「アクティブ」な要素を増やすような授業になるはずである。
 d. よって、「アクティブラーニング」を進めると言った時に、グループワークや討論・発表のよう
  な手間も工夫も必要とするものばかりを想定するのではなく、まずは、普段の講義形式中心
  の授業にどうやって「アクティブ」な要素を増やしていくべきかという視点が必要ではないか。

② 授業にアクティブな要素を取り入れるパターン
  →この項は、筆者が考えている主なパターンを、アクティブな要素が比較的低いと考えられる
  ものから列挙した。他にもパターンを追加したり、整理の仕方を改めることも可能なはずもな
  ので、意見を求めたい。
 a. 講義形式の授業を行っていても、計画的に授業構成を行い、教員が一方的に話すだけで
  はなく授業の途中で手を挙げさせたり、発言をさせたりするなどして、生徒の理解度・リアク
  ションを把握して授業を進めていく。
  ⇒理解度を確認する簡単なクイズのようなものを用意して、きちんと全員に手を挙げさせる
  だけでも、主体性は生まれてくる。当たり前のことではあるが、きちんと発問を事前に準備
  してうまく生徒に参加さしてせる工夫が、自分も含めて徹底できていないのでは?
 b. 特に国理社で、漫然と知識を整理するような授業をしないで、導入でその授業のテーマ・
   論点・問いを明確化して授業を始める。授業の最後で、テーマ・論点・問いに対する感想
   や回答を書かせる。
  ⇒ICT機材の活用することで効率化することができる。a.では、ClassiNoteを活用すること
   で、リアルタイムに生徒のリアクションを確認することができる。b.では、Classiのアンケー
   ト機能を活用することで、生徒の意見を共有する作業がやりやすい。
 c. 特に国理社で、教員が先に説明や知識整理を行うのではなく、教科書・資料集・プリント・
  映像などを読み取って、ワークシート型のプリントに取り組ませ、作業学習を行わせる。そ
  の後に、教員が生徒を指名しながら、補足説明をする 。
 d. 特に英数国の問題演習で、生徒に演習をさせた後、学び合い・ペアワーク・グループワ
  ークの要素を取り入れて、生徒同士に説明をさせる 。
  →c. d.のタイプの授業をさらに徹底して行うためは、反転授業ができる環境が整えられ
   ればいきなり作業学習や問題演習の部分から授業を始めることできる。
 e. 特に理社や道徳・総合で、テーマや課題を設定して、学び合い・ペアワーク・グループワ
  ークの要素を取り入れて、生徒同士に説明・発表をさせる。さらに発展させて、課題学習
  やディベート・ディスカッション、発表などにつなげていく。

③ 現在までに蓄積された授業実践を勉強する必要性:世界史の例
  ⇒以上のように考えると、2012年の中教審・質的転換答申のなかでアクティブラーニング
  明示化されて以降、「アクティブラーニング」が教育関係者の中で一気に注目されるように
  ながったが、このような生徒のアクティビティを重視し思考力や表現力を養おうとする教育
  実践は、当然のことながら、近年突然始まったものではない。特定の教科に根ざさないも
  のでも、佐藤学の授業論・学校改革論 や生活指導の文脈からの実践 、カウンセリングの
  分野から発展した構成的グループエンカウンター などのグループワークの方法論など、
  筆者が知る限りでも多様な実践がある。まずは、このような実践から私たちが学ぶ必要が
  ある。以下では、筆者の専門である社会科、特に世界史の歴史的思考力を重視する授業
  実践書を紹介したい。
 a. 鳥山孟郎『考える力を伸ばす世界史の授業』(青木書店、2003年)。
   暗記偏重と揶揄されることも多い高校の歴史教育に対して、大学受験の現実とバランス
  をとりながら、どのように考える力を伸ばすための授業を展開するかについて、実践例な
  どが紹介されている。
 b. 小川幸司『世界史との対話 上・中・下』(地歴社、2011~2012年)。
   上巻では、小川が2009年の歴史学研究大会で発表した「苦役への道は世界史教師の
  善意でしきつめられている」が再録されており、現在の世界史教育へ問題提起がなされて
  いる。小川は、油井大三郎・東京女子大学特任教授が代表の高等学校歴史教育研究会
  のメンバーであり、歴史教育改革の提案を行っている。
   小川の授業は歴史批評を重視しており、定期試験では授業で扱ったテーマに対しての
  歴史批評を求める論述問題を出題している。
 c. 鳥越泰彦『新しい世界史教育へ』(飯田共同印刷、2015年)。
   専門の歴史教科書の国際比較研究などを通じて、世界史教育のあるべき姿を模索した
  鳥越の論文集。小川とともに、高校教員として高等学校歴史教育研究会に参加していた。

(2)アクティブラーニングを進める上で、検討が必要になってくる論点
 →この項は、筆者が考えている主な論点を列挙した。他の論点も出していただき、認識を深
  めていきたい。
① 授業を行うにあたって他の授業実践の研究をしたり、生徒のアクティビティを中心に授業を
  構成するためにプリントなどを用意しようと思うと、今まで以上に授業準備に時間がかかる。
  ⇒「我々教員の準備はこれまでの3倍かかっているような状況です。当然ですが(反転学習
   を行うために)動画を事前に視聴し、どのような課題を提示するかということを考えたり、予
   習ノートを準備したり。クラスや生徒の特性を考えながら準備をするので、別の授業に使
   い回しはきかないといった状況です。」 (   )内は筆者の補足
② ①の前段に関連して、グループワーク・ディスカッション・発表などを進める際に、生徒が消
  極的だったり、逆に脱線気味に盛り上がりすぎてしまったりなどの場合に対応できるような、
  方法論を共有・蓄積していく必要がある。
③ グループワーク・ディスカッション・発表などを中心に授業を組み立てていくと、必然的に授
  業時間が足りなくなる。
  ⇒筆者が参加した研究会では、このことが論点になることが多かった。比較的準備も授業
  時間も必要とするような実践は1つのテスト期間で1回程度行い、普段の授業ではいかに
  アクティブな要素や考えさせる場面を作っていくのか大事ではないか。
④ グループワーク・ディスカッション・発表などを中心に授業を組み立てていくと、どのように
  成績評価をするかが問題になってくる。
  ⇒テスト面では、グループワーク・ディスカッション・発表などで学んだことをテストでどうや
   って効果的に問うのか。さらに、グループワーク・ディスカッション・発表など自体をどのよ
   うに評価にして、テスト点と平常点の関係をどのように整理していくかという問題が出てくる。
   くる。

(3)おわりに:議論のまとめ
 現在の大学入試改革の潮流や生徒の質の時代的な変化を考えると、授業に「アクティブ」な
要素を増やしていくことが求められているのは間違いない。過去の実践に学びながら、まずは
実際に「アクティブ」な要素を取り入れた授業を行い、方法論を教員間で共有しながら、上記の
論点への解決策を考えていく必要があると考える。

※ワードで作成したものをブログに転載したため、引用注などを省略しています。

鳥山孟郎『考える力を伸ばす世界史の授業』 (AOKI教育LIBRARY、2003年)。
小川幸司『世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評』(地歴社、2011年)。
鳥越泰彦『新しい世界史教育へ』(飯田共同印刷、2015年)。
# by bbex33312 | 2016-01-27 00:45 | エッセイ
深夜に再放送されていた時に1、2話だけ見たことがあった『鈴木先生』を、少し前に友人との会話に出てきて気になっていたこともあり、Gyaoで配信しているのを見つけて視聴。

ドラマであり映画であるので、「そんなうまくいくわけねーじゃん」的なところは、もちろんある。そもそも先生がしゃべり始めると、ものの見事に生徒が黙るなんてわけがないし、結局最後はうまいこと問題が収まる。だが、特に以下の二つの側面で、論点を抽出するためのよい素材を提供してくれていると思う。

一つ目は、教員側の心理面。例えば、私自身について正直に述べるならば、生徒に好かれたいし、生徒に信頼されたい。もちろんそういう気持ちが強すぎて、生徒を怒れなかったりするのは問題外だが、基本的には生徒に好かれたいとか、信頼されたいという思いがなければ、教員としての大事な要素を欠いているとさえ思う。ただ、こういう価値観をなかなかストレートに教員同士で表明することはない。そもそも自分の価値観を披歴する機会なんてないことも多いが、自分の価値観を矮小化して誤解して捉えられてしまう危険もあるし、そんな発想が頭に全くないからピンときてもらえないこともあるはず。

山崎先生(山口智充)や足子先生(富田康子)の鈴木先生(長谷川博己)への嫉妬は、上記の私がもつのに似た価値観が、「自分だって生徒のために一生懸命やっているのに、鈴木先生ばっかり」というように歪んだ形で発露しているに過ぎない。あまり直視したくない感情かもしれないが、そのような感情が生まれるところまでは仕方ないのである。そこで、正常と異常の境界の不確定性という、村上春樹的な世界観が見えてくる。ということは、劇中で鈴木先生自身が言っているように、鈴木先生だって一歩間違えれば、山崎先生や足子先生になっていたかもしれない。

実際、ドラマなり映画なりだと、ついつい鈴木先生の実践はうまくいくという視点でみてしまうが、鈴木先生だって、精神的にマズイところに陥るかもしれない端緒は、劇中にいくらでも見いだせる。鈴木先生は、生徒人気投票一位の一方で、不人気でも三位に入っている。いくら人気があっても、常に斜に構えて接してくる生徒がかなりの数いるのは、気持ちのよいものではない。また、卒業生が訪ねてくるシーン。また、足子先生に完全に目の敵にされている中で、信頼を失うことになるかもしれない生徒との討論。ドラマだから失敗しないものの、もし失敗していたら、教員を続けられないかもしれないほどの精神的ダメージを受けたはずである。

二つは、教育の問題点に関する側面。一番深くて大きいテーマは、映画版で提示された学校教育に適応できたからと言って、社会で活躍できるとは限らないという命題である。この命題の提示は、自分がおぼろげに考えていたことを再認識するきっかえを与えてくれた。教員は、遅刻や課題の未提出に関して、将来困るという論理で、生徒の態度の改善を図ろうとする。しかし、正直に自分の内面と向き合って考えれば、生徒が多少の遅刻ぐせくらいで、将来本当に困るかどうかなんて分かりっこない。遅刻なら、まだいい。学校において提示された道徳を内面化することで「まじめ」になったところで、学校卒業後に活躍できるかなんて分からない。となると、何が教育の目標なのだろうか。社会で活躍する力を身につけさせることだろうか、幸せな人生を送る力を身につけさせることだろうか。当然、社会で活躍すること=幸せな人生とは限らない。このように教育の目的を広くとらえようとすると、そもそも教育なんてできるのかという論点さえでてくる。

この点で、残念なところは、鈴木先生はどのようなことができたら自分の理想とする教育ができたことになるのか、明示的には定義しないで、「実験」を行っていること。理想が見えなければ、方法も確定できない。ドラマ・映画で見ると、ついつい鈴木先生の実践が理想的に見えてしまうが、本当は何が理想の状態かなんて簡単には分からない以上、例えば足子先生的に避妊は大事というメッセージを送り続けることだって、一つの方法のはずある。

以上にように、私にとっては、様々な思考の契機を与えてくれる映画だった。

『映画 鈴木先生』(2013年)。
# by bbex33312 | 2014-08-11 05:26 | 映画・ドラマ