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by めがね

松本人志は天才か?

イチローは、自身を天才と呼ばれることが好きではない、という話を聞いたことがある。不断の努力の結果として様々な記録を打ち立てているのに、その努力が天才のひと言で片付けられてしまうのに違和感を覚えるのだという。彼は、自覚的な努力が多少少なくても、成功してしまう人物のことを、天才と定義しているのだろう。

ただ、本人の意識とは別に、彼を天才と評しても差し支えはないだろう。野球選手の場合、例えば、メジャーリーグで年間200本安打を何年も続けているなど、活躍の度合いを、ある程度客観的に測る指標があり、その指標によればイチローは間違いなく偉大な記録を残しているからだ。

ところが、お笑い芸人の場合はそうはいかない。お笑いの評価にはどうしても好みが伴い、客観的な指標などは存在しない。客観的な指標が存在しない以上、ある芸人を天才と評するためには、その天才性を理解できるだけのセンスがなければならないはずである。

ここに、松ちゃん天才論者の心理が隠されているのである。「松ちゃんは天才だよ」という主張は、実は、自分はお笑い好きであり、あの松本人志のお笑いが分かるくらいのセンスを持ち合わせているというアピールなのである。

そして、松本人志のスタイル・スタンス自体が、このような受け手の心理を生む性質を内包しているように思えるのである。

『シネマ坊主』(日経BP社、2002年)では、北野映画を評した部分で、「僕のやっている笑いもそうですけど、すぐにはわかってもらえなくても今やっておかないといけないことって、やっぱりあると思うんです」(16ページ)と語っている。しかし、どのようなことが今やっておかなければいけないことなのかは説明されていない。また、テレビ番組では、周りが笑い始める前に、自分でひき笑いをして、まるで今この瞬間こそが笑いのポイントなのだと促しているかのように見受けられることがたびたびある。

つまり、究極的には個人の好みでしかないお笑いにおいて、松本は根拠もなく天才感をかもしだし、松ちゃん天才論者はそれを根拠もなく受け入れて自分のセンスを主張するという、相互依存関係が成り立っているのである。

松ちゃん天才論者達は、自分なりに松ちゃんの天才性を説明していない以上、松ちゃんに対して同じような評価をしているかを本当にお互い共有できているか分からないはずなのに、「松ちゃん天才」というフレーズだけで、強い連帯意識を発揮するように思う。そして、松ちゃん天才論を共有しない人間には非常に排他的で、センスのない奴というレッテル貼りを行う。

残念ながら、松本人志が天才かどうか、僕には分からない。
でも、やっぱり、松ちゃんも松ちゃん好きも好きではないと、つくづく思うのである。

松本人志『シネマ坊主』(日経BP社、2002年)。
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by bbex33312 | 2008-11-07 01:59 | エッセイ