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by めがね

『鈴木先生』を見て考えたこと

深夜に再放送されていた時に1、2話だけ見たことがあった『鈴木先生』を、少し前に友人との会話に出てきて気になっていたこともあり、Gyaoで配信しているのを見つけて視聴。

ドラマであり映画であるので、「そんなうまくいくわけねーじゃん」的なところは、もちろんある。そもそも先生がしゃべり始めると、ものの見事に生徒が黙るなんてわけがないし、結局最後はうまいこと問題が収まる。だが、特に以下の二つの側面で、論点を抽出するためのよい素材を提供してくれていると思う。

一つ目は、教員側の心理面。例えば、私自身について正直に述べるならば、生徒に好かれたいし、生徒に信頼されたい。もちろんそういう気持ちが強すぎて、生徒を怒れなかったりするのは問題外だが、基本的には生徒に好かれたいとか、信頼されたいという思いがなければ、教員としての大事な要素を欠いているとさえ思う。ただ、こういう価値観をなかなかストレートに教員同士で表明することはない。そもそも自分の価値観を披歴する機会なんてないことも多いが、自分の価値観を矮小化して誤解して捉えられてしまう危険もあるし、そんな発想が頭に全くないからピンときてもらえないこともあるはず。

山崎先生(山口智充)や足子先生(富田康子)の鈴木先生(長谷川博己)への嫉妬は、上記の私がもつのに似た価値観が、「自分だって生徒のために一生懸命やっているのに、鈴木先生ばっかり」というように歪んだ形で発露しているに過ぎない。あまり直視したくない感情かもしれないが、そのような感情が生まれるところまでは仕方ないのである。そこで、正常と異常の境界の不確定性という、村上春樹的な世界観が見えてくる。ということは、劇中で鈴木先生自身が言っているように、鈴木先生だって一歩間違えれば、山崎先生や足子先生になっていたかもしれない。

実際、ドラマなり映画なりだと、ついつい鈴木先生の実践はうまくいくという視点でみてしまうが、鈴木先生だって、精神的にマズイところに陥るかもしれない端緒は、劇中にいくらでも見いだせる。鈴木先生は、生徒人気投票一位の一方で、不人気でも三位に入っている。いくら人気があっても、常に斜に構えて接してくる生徒がかなりの数いるのは、気持ちのよいものではない。また、卒業生が訪ねてくるシーン。また、足子先生に完全に目の敵にされている中で、信頼を失うことになるかもしれない生徒との討論。ドラマだから失敗しないものの、もし失敗していたら、教員を続けられないかもしれないほどの精神的ダメージを受けたはずである。

二つは、教育の問題点に関する側面。一番深くて大きいテーマは、映画版で提示された学校教育に適応できたからと言って、社会で活躍できるとは限らないという命題である。この命題の提示は、自分がおぼろげに考えていたことを再認識するきっかえを与えてくれた。教員は、遅刻や課題の未提出に関して、将来困るという論理で、生徒の態度の改善を図ろうとする。しかし、正直に自分の内面と向き合って考えれば、生徒が多少の遅刻ぐせくらいで、将来本当に困るかどうかなんて分かりっこない。遅刻なら、まだいい。学校において提示された道徳を内面化することで「まじめ」になったところで、学校卒業後に活躍できるかなんて分からない。となると、何が教育の目標なのだろうか。社会で活躍する力を身につけさせることだろうか、幸せな人生を送る力を身につけさせることだろうか。当然、社会で活躍すること=幸せな人生とは限らない。このように教育の目的を広くとらえようとすると、そもそも教育なんてできるのかという論点さえでてくる。

この点で、残念なところは、鈴木先生はどのようなことができたら自分の理想とする教育ができたことになるのか、明示的には定義しないで、「実験」を行っていること。理想が見えなければ、方法も確定できない。ドラマ・映画で見ると、ついつい鈴木先生の実践が理想的に見えてしまうが、本当は何が理想の状態かなんて簡単には分からない以上、例えば足子先生的に避妊は大事というメッセージを送り続けることだって、一つの方法のはずある。

以上にように、私にとっては、様々な思考の契機を与えてくれる映画だった。

『映画 鈴木先生』(2013年)。
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by bbex33312 | 2014-08-11 05:26 | 映画・ドラマ